
はじめまして、わたし柴原健一と申します!さて、番頭という仕事にあこがれ東伊豆で青春を謳歌し、いくつかの縁がありまして登場しております・・・。
伊豆は東、東伊豆、熱海でなく熱川で過ごし「旅館」という仕事のなかで、どこか人情味あり癖の強い人物を紹介していきます。
ホテル・旅館と言えば名物女将や支配人がいるはず!そう、紫小倉という旅館で出会った総支配人中野さんのお話の巻!
: 記述
さて、話は溯り中野さんと出会う前の話から。
私が子供の頃、私の世代(昭和 58 年生まれまで=私個人見解)までは、どこの家庭でもテレビの前で家族そろってお笑い番組を見たり、スポーツ番組をテレビ観戦(特に巨人戦)を見ることが主流でした。
父はその間、夕刊の新聞をつまみに仕事の疲れを癒しながら晩酌をし、母と主にテレビ番組を見ていました。
そんなテレビが面白い時代に生れた私が一番好きなテレビ番組はというと、子供ながらに影響を受けたのが銭湯をテーマにしたバラエティドラマ「時間ですよ」でした。
主演は女将さん役をやらせれば天下一品の森光子氏、そして当時のスターでもあり、お笑い人と歌唱人の架け橋だけでなくスポーツ系アスリートさんも虜にする「とんねるず」の出演が銭湯での番頭さんの駆け引きの演出が良い味を醸し出していたことを記憶しています。
そのなことから、番頭さんという仕事に興味や温泉に携わる仕事がいいなぁなんて子供の頃に思っていました。単なるエロガキではありません。
話は戻り、時代はながれ、私たちの青春を謳歌し過ごした 1999 年頃は就職超超氷河期という時代でした。求人は 10 人に1つなどで、職を選ぼうものなら倍率 30 倍から 50 倍位もあったことを記憶しています。
何処を受けても採用なし、1 名のみ採用など本当に途方に暮れたものでした。大大大不況の風のなか、公務員に応募する同世代が殺到しました。私の学んだ観光系の同級は旅行会社、ホテル系、客室アテンダントなどに就職先を探しますが、旅行代理店の採用枠数名に応募者が数百人なんてザラでした。多少内定はもらったものの、行く気がしませんでしたので辞退しました。
そんなある日、旅館営業募集という四角枠に当て込んだ求人募集記事に目がとまりました。その旅館営業募集という言葉そのものが学校の求人では見たこともない。その文言がなんか私にとって輝かしい仕事ではないかと心に刺さったのでした。
学校の求人でなく、近くのスーパーいなげやに置いてあった誰でも手にすることが可能な無料のフリーペーパーの 1 ページに旅館営業スタッフ募集と記載が載っていました。勤務地、渋谷、東伊豆、熱川の 3 文字。
私は決めました。一度、秋川の山を離れ熱川という海で働いてみようと。旅館の番頭の仕事をやってみよう。子供の頃、夢を見たではないかと希望を持ったのでした。
翌日、父母に内緒でスーパーいなげやの駐車場から紫小倉に電話をかけ、気前の良いお兄さんが電話対応するのでした。
「はい、お電話ありがとうございます。紫小倉でございます。」
わたし「人事採用の方をお願いします。」
「あのう…人事採用についてなのですが・・」私からの電話対応者は決定権の持っていない者であったため、後で折り返すとの返答で緊張しながら電話を待っていたことを鮮明に覚えています。
駐車場で考え事をしていると 20 分程経過したころに着信があり、電話をしてきた相手は年配の男性でした。口調の穏やかな感じの中に少し甲高い声の混ざったような声、私に関する質問のやり取りをしました。
そして、明日折り返すという返答でした。通常であれば、リゾートバイトの募集だろうということで、いつからいつまで働けるかなど期間を主とした質問であろうと予測していましたが、何か違うような感じを受けたのを記憶しています。
次の日、とても奇妙な高らかな声の主から電話がありました。代表取締役 O 氏でした。わざわざ、社長から電話ということで当時の若い私にはびっくり。
電話でのやり取りはというと、運転免許に自信があるか、短気か気長のどちらか、兄弟はいるのかなど意表を突いた質問をなげかけてきました。必ず、両親の承諾を得ること、これが仕事をする約束事でした。電話での会話はこれだけで、採用決定なのか、いつから行けば良いのか、わからないまま両親に相談し了承を得た。
ただし、母親はあまり乗る気がなかったが本人が決めたことで、ずっと居座るのではないだろうし、渋谷にも勤務地があるのでそこを希望しなさいと背中を押してくれました。
翌日、紫小倉に電話をかけまして、採用なのかどうか、いつから行けば良いかを尋ね、とりあえず熱川に行く日を決め、荷物をまとめ準備しました。
まあ、そんなこんなで柴原家は大混乱、一人息子が遠路離れること。当時の市長は親戚であり市の公務員募集を断り、サービス業のこと等々。まあ、そんな私は緊張感と期待でいっぱい・・。ボストンバッグにとりあえずの荷物と多くの感情を抱き、いざ伊豆へ飛び立つのでした。
: 記述
いざ!旅は電車で弁当を!という気に全くならず、緊張間と汗だくで風邪をひきそうでした。当時は携帯電話ではなく PHS が主流でしたし、電話を片手にインターネットなどは、まだまだ先の話。
とにかく私の頭の思考は竜巻のようにぐるぐると、良かったのか、悪かったのか、その繰り返し。あらゆることが良い想像、悪い想像を創り出し、到着までヘロヘロの状態。伊豆急踊り子号ではなく、通常の普通列車の窓から目にするものは青空と青い海であり、それを見ることで心配を紛らしました。
熱川到着。熱川温泉到着。そこは、駅を降りると湯気が噴噴と漂い、観光客の笑い声もチラホラ聞こえ、昭和のレトロ的な各施設の看板や夜に光であろうネオン文字などが飛び込んできました。「あー、良いではないか!」「さてと~」と熱川駅の階段を降りました。
そこで・・目にしたものはというと、自分の旅館に泊まるであろうお客様の到着を待つバスの送迎の運転手さん達が無表情の中に笑みを浮かべ整列正しく並んでおられました。それは見たこともない光景でした。
出口には熱川バナナワニ園の看板、あら懐かしい、子供の頃数回来たことがあます。ついでに熱川の海水浴で溺れかけたことを思い出しました。今でもあの溺れかけそうになったことは家族でも話にあがります。
覚えていない懐かしさに加え、にやけていると送迎のおじさん達の中に 紫小倉の記載ある中型のワンボックスカーがありました。見渡すと他の旅館やホテルは、大型のマイクロバスのばかり。そんな大型車両が並ぶなかで、なぜなのか、お客様が降りる階段から一番良い立ち位置に S 閣Oホテルの車両が目立っていました。その車両の前に立つ小柄の可愛いおじちゃんが直立していました。話しかけ「乗ってけよぉ~」という軽い返事で車両の中に 15 分ほど待つのでした。
目的地まで 2~3 分。駅ロータリーから急坂を降り、右手には新鮮な干物屋と粋なおやじ、左手には射的場、スマートボール、輪投げ場などを目の当たりにし、私は気分高揚。ストリップ劇場、飲み屋もある。
そしてもう少し坂を下り、右の大きなホテルを過ぎると海、海、海。G ホテル、YA 館、S よしホテルを抜け、熱川 S リゾートホテルで泊まりました。すげー、立派なホテルだ!! ここで働くのだろうと思った瞬間、私の車輛は通り過ぎました。左には小さなん N旅館、ダイビング系旅館を過ぎ、最後に招き猫が玄関入口にある旅館に到着。
そう、ここが 紫小倉です。O という黒い看板が一枚 1 階に掛かっていました。はい、想像と違うというか、なんか古い、いや、古いというか、小さいという印象でした。私が想像するホテルというと、就職難で不採用憎たらしい舞浜のディズニーランド系ホテルです。な~んか嫌な感じがしました。はい、そのまま正面のフロントに行き、挨拶をすませ、ロビーで 15 分ほど待ちました。
中野支配人登場。少し小柄ですが背筋がピンとしており、昭和の少し光輝いたスーツがピシッときまっていましたが、頭の方も輝かしい年配の方が対応してくださり、この方が中野さん。
「おい。今日からだな。仕事は」「え~、社長が今出ているがちょっと待ってて」の二言を言い残し、当時の鈴木さんという若い副支配人が私の面倒を見てくれました。
補足、若いというのは、このOホテルには、ちょっと前に退職したが長年に渡り鈴木さんという伝説のスーパー支配人がいたらしい。そのこともあり、私が入ったころは若い鈴木さんとよばれていました。 さて、本題の中野さんとのいくつかの話はこれから・・・
: 記述
「そう、いよいよ紫小倉で働き始めました。」
はいそうです。いよいよ紫小倉での奮闘の日々が始まります。
紫小倉の初仕事は明日からということになり、更にロビーで30分程待ち、紫小倉の社長が登場。
「デカい人だ・・」「顔もでかい・・」という印象が私のファーストインプレッション。
紫小倉の目前に広がるのは青い海、エメラルド色の海、海一色の海。そんな海はロビーからも鮮明な色を放っていました。そんな綺麗な海を横手に紫小倉の社長の話がはじまりました。
えぇ、全く何を言っているのか不明でした・・・。日本語で仕事の話をしているのですが何をいっているのかさっぱり理解できませんでした。偏差値が低いわけではありません!絶対に。
私の脳内は不安、不安の文字のみ。?マークで頭が充満している。約1時間くらいの説明があり、頭がクタクタ、喉がカラカラになりながら、新生活の場である紫小倉の寮に行くことになりました。
気持ちを切り替え、寮に連れて行ってくれるであろう人物がやってきました。やはり背筋がピリッとしている人、中野支配人の再登場です。かなり後になり知りましたが、水泳をやっていたらしい。
どうりで顔の上の方が塩素で・・!と思ったのもまだ先の話。
私に近づいてきて、あの何となく低いような高い声で「おぉい、寮が満員だ。」「お前っ、一緒に来い。」と呼ばれ、9階に連れていかれました。
(中野さんの「おい」という発生音はとてつもなく特徴があり、「おぉぅい」なのか「おぅい」なのか、発音「う」または、発音「ぅ」が、発音「お」の後に入るのです。文字ではとても表現できません。また、低い声なのか高い声なのか、ちょっとドスが効いた声でもなく、背中を突き刺すような声というか脳裏によぎる声なんです。)
話が戻りますが、この紫小倉は9階もあるのかと大変な驚きだったと覚えています。
ところで、こちらの中野さんと私ですが、未だきちんと挨拶もしておらず、私もこの人が支配人だと教えていただいたのは、もう少し日が経過してからでした。
「おい、今日からお前はここな。」「おぃ、部屋ね。」「あと、それとよぉ、おまえは、社長んところの勤務だからぁ、近いぞ!なぁ!」と無表情の中野さん。
それで、私はというと「は?、社長んとこって何ですか?」と中野さんに聞き返したところ、中野さん「え~!俺も知らねー。」の一言を残し去ってしまいました。
それと「まあ、あとでよ~呼ぶから、なっ。」と去り際に言い渡され、この中野さんがまだ紫館の支配人とも知らず、きちんと挨拶もせず、そんな・こんな・やりとりで部屋を案内され、私の頭は混乱のみ。
: 記述
「汚いよ・・」とにかく私が生活するであろう部屋が汚かった。953号室。
そう、紫小倉の9階には、お客様の客室であるオーシャンビュー901~905号室の5室があり、905号室のドアを正面として、そのドアを振り返ると後ろ側には細く、暗い通路が続くのでした。
その細い通路には従業員部屋として906、907、908、953号室という紫館で勤務する従業員部屋が4室並び、私の953というのは一番奥でした。
しかし、汚いのなんのって。部屋の中には、テレビ無し、冷暖房破損により水漏れ、押し入れはエロ本と宴会場の食べ残しの皿が詰め込まれており、とても住めるような環境でなかった。
まぁ、本当に、本当の、ホントの話。
どうしよう・・。やばい・・、やばいぞ。胃がキリキリし、暫くどうしようか。
何をどうしようか、何をどうしようか、それもわからないまま黙って部屋に座り込み、東京秋川から持ってきた本を片手に誰か私に声をかけに来てくれるだろう者を待ちわび、希望から絶望に変わったことに気が付いてしまった私が夢の中でなく、既に伊豆熱川の953号室にいるのでした。
変な胸騒ぎと部屋が汚い消失感から更に追い打ちをかけるようなことが起きました。
“ピンポンパンポン、ピンポンパンポン”、お客様へ、紫小倉防災センターよりご案内申し上げます。
お客様へ、紫小倉防災センターよりご案内申し上げます。只今より、非常放送設備の一斉点検を行います×2。ベルがなりますが点検ですのご安心ください。×2。
わたし、チンプンカンプン・・。あれれ、ベルが鳴らないなと思っていると、「ビビビー!!!」「チリリーン!」と、とてつもない音が鳴り響き、すぐに部屋を出ました。
なんと、私がこれから生活する部屋に非常放送設備自体が付いているではないか! 勘弁してくれ!と心中で叫ぶのでした。
そして、この非常放送の声の主は中野さんであったのでした・・・。
え~、はい、という事で、以上、という事で、就職相談室にあるような求人募集でなく、一般の雑誌の紙面に載っている求人広告の小さな一面の記事に興味をもち、思考をフル回転させながら電話をかけ、うんちゃらなんちゃらで遠路はるばる到着した東伊豆。
そんな・こんなで慌ただしくスタートした私の熱川奮闘記では、表裏面白く多様な人間模様がありました。
そして、東伊豆熱川の朝晩は素晴らしい。オレンジ色の朝日は大海原を自らの光で包み、お月様は近いようで遠くから自らで輝き、暗闇を真っすぐ照らし、働く人々の活力を増大させ、見る人を魅了していました。
そんな光景が紫小倉の自慢のひとつでした。
まあ、誰が何と言おうと、ある意味激動と感動の20代を過ごした熱川温泉旅館 紫小倉。私の人生において仕事も人情、志も濃かったあったアオハル(現代用語の死語)でした。
このような前置きがありましたが、そう、この湯が沸く旅情・・熱川温泉で、熱川温泉の宿でも風変わりな紫小倉で出会った数人の人々を私が知り得る範囲で語りたいと思います。
: 記述
そして、この冒頭より話のタイトルである総支配人である中野さん。
まず、この人、見た目はピリッと背筋が通り、ちょうど背丈にぴったりあったスーツを着こなし威厳があります。
しかし、身長はそれほどでもないが何か威厳があり、が…頭も光として、威厳があります。
今はご法度ですが、私が勤務したころは、世の中は仕事場や事務所内でのタバコは禁止ということはあまりありませんでした。
中野さんのタバコの吸い方には特徴があり、タバコをピンと上にたて(数字の1)、少しだけ下口びるを突き出し、タバコの火が付いている方が自分の鼻の上につくかつかないかの位置で吸っていました。
事務所はタバコ臭く、な~んか黄色感じであったのをよく覚えています。
中野さんの目に叶うまでは、人のことを「おぃ。」と呼ぶのです!
新人の仕事内容をとにかく黙って見ている。静かに聞いている。そして、特に何も言わなのです!
館内をあちら、こちら、歩きながら施設の状態を見ているが、特に問題があっても自分からは修理などしないのです…。
冷静沈着で慌てているところを見たことがありません!!
私が勤務したときは旅館の支配人であり、若い鈴木さんという方が副支配人で、ほぼこの若い鈴木さんに業務を任せ、表舞台にはほとんど立たず、事務所内の一番奥でゆっくりしていました。
最終的な最終の砦としてクレーム処理対応していたのを記憶しています。
クレームでもかなり執拗で悪質なクレーマーの苦情があった際は、事務所内で内心ですが頭から湯気がでそうな気配の苛立ちを見せていました。
今となっては、こんなお客様は、カスハラで逆に訴えれるだろう…。
こんなことが良くありました。私が紫小倉の社長の配車で多く出張などをしている際、助手席で必ず社長は電話で「中野。」「中野!」とだけ伝え、中野さんに電話をすぐに代わるよう紫小倉の受付に電話され、中野さんからしてみると、毎度の社長の電話は面倒であり、簡単な内容もとても難しくしてしまうような内容だったらしい・・・。
そんな、中野さん、いつも「まったく!」とだけ言い残し、どこかに消えるのでした。
旅館の土日の夜はとても忙しく、お客さまの夕食に提供する刺身の舟盛を仲居さん達が待機する料理準備室まで持って行ったりと手伝っているが、きちんと時間通りに帰社するという正確さ。
ご自宅の夕食を期待しており、奥様と仲が良いと推測!!。
そうは言っても中野総支配人です。「リスクマネジメント」という言葉がありますが、次に何が起こるかを予測し、きちんとリスクを察知する能力が抜群でした。
これは変な話かもしれませんが、中野さんがいるときは、施設にクレームや設備の破損や故障がないのですが、中野さんが不在のときは、施設の故障などが発生するといった事案が多かったことを記憶しています。
付随しますが、中野さんが退勤された後に設備の故障などが起きるという現象があり、事務所では話題になり、ホントのホントの話でした。
これは、中野さんが神様や仏様でなく、未然にいろいろなリスクを察知しリスクがあるであろう原因をを摘み取り、大きな事故や怪我をしないよう総支配人としての責務であったことはいうまでもありません。
これは冒頭に記載しました【无微不至】、どんな細かい点でも気を遣うといったお客様への精神であったのであろう。
「无微不至」とは、中国語の四字熟語で、ウー ウェイ ブ ジー と読みます。意味は、(どんな細かい点までも気を遣う)心遣いが至れり尽くせりである、かゆいところに手が届く、ということで、僕(私)の知っているたった一つの中国語です。
これは、観光学校時代の同級生に、中国籍の可愛い女性がいて、彼女が授業の合間によく口にしていたので覚えました。
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